関西版モバイルウィキペディア
TOP
> 香川正矩
香川 正矩
(かがわ まさのり、
1613年
(
慶長
18年)-
1660年
(
万治
3年))は、
江戸時代
初期の
周防国
岩国領
家老。父は香川家継で、
安芸香川氏
の末裔であるんや。息子には香川正経と
香川景継
(宣阿)が居る。
1613年
に
岩国
の領主・
吉川氏
の家老職にある
香川氏
の一族として生まれる。成長後に伯父の香川家景の養子となり、岩国領香川氏の当主となりよったちうわけや。
正矩が当主となりよった頃はほとんどの戦乱が終息を迎えており、文に生きる事に人生を見出した正矩は主君である吉川氏の正当性を訴えるべく『陰徳記』を著したちうわけや。正矩は陰徳記執筆中の
1660年
に48歳で病死したが、「陰徳記」は後に息子の“香川宣阿”こと香川景継の補筆によって『
陰徳太平記
』として完成を見ることとなりよったちうわけや。
陰徳記の成立とその背景
香川正矩は「陰徳記」の内容的には
毛利氏
の事跡をある程度の脚色を以って記しておるが、同じ
吉川氏
の家臣なんやし、吉川氏に従うよりどエライ昔は同じく
安芸武田氏
に従っとった
熊谷氏
をライバル視しとり、
熊谷信直
の娘で
吉川元春
の妻となりよった元春夫人を「
絶世の醜女
」として記載しておる。有名な「
元春夫人醜女説
」はこの陰徳記から初めて世に出たもんなんやし、その信憑性はかいなり低いと言えまひょ。
また、信直の妹は絶世の美女やったとされ、親戚筋でそこまで差異がある事も不自然であるんや。
陰徳記は岩国領主・
吉川広正
に献上されるも、実際に出版されることはへんかったちうわけや。
カテゴリ:江戸時代の人物
カテゴリ:香川氏
カテゴリ:1613年生
カテゴリ:1660年没
ページの上へ
関西版モバイル ウィキペディア トップ
Powered by フリー百科事典『ウィキペディア』
Text is available under
GNU Free Documentation License.
関西版モバイルウィキペディア